−1999年の『野坂惠子箏リサイタル』で発表した小冊子【二十五絃箏について】から−


『場と音』−箏改革に加担して

小宮清
工業デザイナー

西欧合理主義やモダニズムに憧憬した私は工業デザインという職を目指したのであるが、
芸大3年生の秋、重大な思想転換をせまられた。
それは、奈良大覚寺僧坊に寄宿して奈良と京都の社寺を40日間毎日シラミつぶしに見て回る授業だった。
そこには大陸渡来文化を始め、それらを糧に日本固有文化にまで譲成していったものがタイムカプセルに詰められたように大量にあった。

西欧文化礼讃者だった私は、日を重ねるにつれて次第に物が見え始め、
ついには日本文化のもつ一種独特の合理性とそれを形成したテクノクラートたちの知恵と技量にとりつかれていった。
それらは時代を超えて生き生きとしてみえた。
“西欧に学ばずとも、ここに堆積する文化の質と量は一生かかっても吸収しかねる”
という感慨にひたったのである。とはいえ、私はその時以来何も国粋主義者になったわけではない。

世界文化は一極に収斂させてよいものではなく、多様な文化の対比と融合によってこそ、その豊饒さがもたらされると信じたい。
そのためには文化を優劣視せず、それぞれの質的相違性を深く見つめなければならないのだと悟ったのである。


そんな私は、1969年秋以来、日本古来の箏を変革したいという野坂惠子さんの勇気に加担した。
音楽に門外漢の私がなぜそうしたかというと、その作業は日本文化の一典型と現代という対極世界の相克になるのは必定で、
そこに大いなる魅力を抱いたからである。

さて、二十絃箏の開発であるが、野坂惠子さんの第1ニーズは箏のボキャブラリー増大であった。
絃を従来の13本から何本増やすかは彼女が決めた。
そうすると絃の間隔を可能な限りつめても箏の幅が増大する。よって箏の断面が大きく変化してくる。
断面図を作図して箏屋さんに渡し、その材調達から苦労が始まった。
箏屋さん達は永い歴史の中で定められた作り方に慣れ、それを逸脱する勇気にかけているし、
部材のサイズも生産、流通がしきたり通りでやってきたから、何から何まで型破り、
やっと材が手に入っても初老の職人は図面と材を見やるばかりで一向に作業は進まず、
みかねた私が自らノコやノミをふるったものであった。

胴がくりぬかれ、裏板が貼り付けられる前、胴の厚さが問題になった。
厚すぎては高音部の音質やパワーが出ないし、薄すぎては絃の張力に耐えられない。
ホール演奏用楽器とするなら、音量は可能な限り大きくしたい。
すると、共鳴板となる裏板の材質とその厚さも最良にしたくなる。
唄口(箏裏面の開放口)の位置とその面積はどうするか、すべて箏屋さんにとって未知の世界手をこまねくばかり、
最終決断は私がするよりなかった。

第1号の二十絃箏が出来て立奏台の設計に入った。
箏は元々座奏用にデザインされているから、立奏台はどんなにデザインしても違和感はつきまとう。
いっそ空中に浮かせて弾いてもらいたかった。
しかし、うまくデザインすると、箏が発する音のエネルギーを客席にまで有効に送り届ける反射板をとりつけられる。
その反射板は可能な限り大面積にし、音の反射効率を高めるために質量の高い木材を選択した。

この他にも、後に姿を消していった新機構を備えた二十絃箏第1号は、
1969年秋、大手町の日経ホールで第2回野坂惠子リサイタル(芸術祭参加)に用いられた。
それから30年間、二十絃箏の改良が営々と続けられたのであるが、
それらは絃、竜角、調絃ピン、柱、立奏台、座奏台などであり、音響学者も参画して科学的な実証を加え続けられた。

こうした作業の目的は、一貫して箏の場と音の整合性をつけること、
そしてあくまでも野坂惠子さんが欲する箏の音を創出することであり、決して箏をはなれて異質なるものを求めたのではなかったのである。






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製作の流れ
| その1 |

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